「フランスの移民政策は成功しつつあるという認識
」では、紀元前から異文化との交流が会ったフランスでは移民に対する理解が進んでおり、成功を収めつつあると書いてきました。日仏の移民に対する抵抗の違いの大きな理由として、国籍というものに対する考え方の違いがあるのだと思います。日本人は大昔から代々日本列島に住んでいた人たちが日本人であると簡単に思い込めますが、フランスではそうではありません。今のフランス地域は、ローマ帝国の一部としてもっと広い範囲の国だったこともあり、もっと小さく分かれていたこともあります。代々フランス地域に住んでいた人をフランス人と無邪気に思い込むことはできません。何を持って国家を成立させる根拠とするか興味深い話があったので紹介します。
ここではたと、正しい国の形ってなんだろうという話になります。日本人だとパスポートに書かれている国籍が正しい国の形を反映しているのか問うことは有りません。日本のパスポートを持っていることが自分が日本人であることを証明していて、その根拠について問うことは有りません。国籍の根拠なんて問うことができるとは思わず、思考停止していたのですが、その後の5秒ほどの会話の中で、大陸の人たち(フランス人と中国人)の国籍に対する理解の敏感さに感心しました。
フランス人の質問「じゃ、例えば中国の一番北の人と一番南の人が、ブラジルで出会ったら親近感を抱くと思うか?」
と問いました。つまり、国というものの存在に正当性を持たせうる根拠を親近感と定義したのです。日本政府がパスポートに記載した国籍以外のもので、国籍と言うものを正当化させるものとして、人の感情を持ってきたのです。日本で言うと北海道と沖縄の人がブラジルで出会えば安心するのはほぼ間違いないと思われます。国家が決めた国籍以外のもので、国籍の根拠を求めるには、なかなかの案だと思いました。
僕がほおと感心していた一瞬後、中国人の切り返しがまた冴えていました。
中国人の答え「たとえ中国人とブラジルで出会っても信用しない。その人の人となりを見て信用する。」
これもまた、国籍が人に信用を与えるわけではないという本質的な答えです。他国の人でも信用に足る人はたくさんいるし、日本人同士でも警戒すべき人はいます。考えてみると当たり前で、納得できることなのですが、やはりフランス人と中国人の国家というものの理解の鋭さが会話の瞬発力につながっていると思われる例でした。
18〜19世紀に市民革命の結果として誕生した、国民国家というコンセプト(幻想?)に、日本は幸か不幸か違和感なくハマった国のような気がします。移民の議論とかに、このかなり特殊な国家感を説明できないまでも意識化しておいた方が良いでしょう。そうでないと、日本に来る人に意味不明な疎外感を与えるような事になってしまいそうだからです。
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国の形についての議論
去年、200人ほどが亡くなり、1500人ほどが逮捕されたと言われているウイグルの衝突(2009年ウイグル騒乱 - Wikipedia)のニュースがあったころに、昼食で中国の国の形が話題になりました。中国は人口の90%を占める漢族と55の少数民族から成っています。議論の対象はやはり、漢族が少数民族を支配していて、少数民族の中には今の中国の形を支持していない人もいるから、暴動が起こるのではないかというものです。中国人はもちろん、それは違うといいます。中国の経済的成功を快く思わない外国の勢力が民衆を扇動して、無法者が暴れているというふうに言います。ここではたと、正しい国の形ってなんだろうという話になります。日本人だとパスポートに書かれている国籍が正しい国の形を反映しているのか問うことは有りません。日本のパスポートを持っていることが自分が日本人であることを証明していて、その根拠について問うことは有りません。国籍の根拠なんて問うことができるとは思わず、思考停止していたのですが、その後の5秒ほどの会話の中で、大陸の人たち(フランス人と中国人)の国籍に対する理解の敏感さに感心しました。
フランス人と中国人の国籍に対する考え方
どのように中国の今の形が正しいかどうかを問うのか、そのときのフランス人の質問が冴えてました。フランス人の質問「じゃ、例えば中国の一番北の人と一番南の人が、ブラジルで出会ったら親近感を抱くと思うか?」
と問いました。つまり、国というものの存在に正当性を持たせうる根拠を親近感と定義したのです。日本政府がパスポートに記載した国籍以外のもので、国籍と言うものを正当化させるものとして、人の感情を持ってきたのです。日本で言うと北海道と沖縄の人がブラジルで出会えば安心するのはほぼ間違いないと思われます。国家が決めた国籍以外のもので、国籍の根拠を求めるには、なかなかの案だと思いました。
僕がほおと感心していた一瞬後、中国人の切り返しがまた冴えていました。
中国人の答え「たとえ中国人とブラジルで出会っても信用しない。その人の人となりを見て信用する。」
これもまた、国籍が人に信用を与えるわけではないという本質的な答えです。他国の人でも信用に足る人はたくさんいるし、日本人同士でも警戒すべき人はいます。考えてみると当たり前で、納得できることなのですが、やはりフランス人と中国人の国家というものの理解の鋭さが会話の瞬発力につながっていると思われる例でした。
国籍は心の持ちようだということ
フランス人は国籍の根拠を親近感という人間の心情に求め、中国人は人と人との関係は国籍で決まるものではないと言っています。フランス人と中国人のどちらにも共通するのは、国籍というものを気持ちの持ちようと考えていることです。人、モノ、情報の絶え間ない交流が続いてきた大陸の人は、日本とは違う考え方をするんだなと思いました。でも考えてみると、日本の方がかなり特殊な例です。大抵の国は大陸にあって分割された土地に住んでいるので、国家の決めた国籍を安易には信じ込めません。アイヌと琉球の人とかも含めて、特に理屈なく日本人だと信じることが出来ている方が珍しいはずです。イギリスは地形は似ていますが国際語を母国語としていますし、状況がかなり違います。オーストラリアとニュージーランドもそうです。自明な「なんとか人」がいて、それを元に国籍が定義されていると無邪気に思い込めるのは、日本と戦後の韓国ぐらいかも知れません。18〜19世紀に市民革命の結果として誕生した、国民国家というコンセプト(幻想?)に、日本は幸か不幸か違和感なくハマった国のような気がします。移民の議論とかに、このかなり特殊な国家感を説明できないまでも意識化しておいた方が良いでしょう。そうでないと、日本に来る人に意味不明な疎外感を与えるような事になってしまいそうだからです。
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