「日中友好」は日本を滅ぼす! 歴史が教える「脱・中国」の法則中国に近づくと国が乱れ、中国と断交することで繁栄する日本の法則を解き明かそうとする本でした。このブログには、「日中友好の重要性」というエントリもあるので、どんな風に反対のことを書いているのかちょっと見てみようと思って、手に取ってみました。中国人はモラルがなくて、盗人で、ずる賢くて、腹黒でいつも日本を攻撃しようと狙っているので、アメリカと組んでつぶした方が良いみたいな話だったら、読む価値もないと思いましたが、本書には耳を傾けるに足ることが書かれていました。まず、本書を特徴づける要素として、この本が他ならぬ中国人の手で書かれたことが挙げられます。著者は、本が書かれた2005年当時には中国人で、2007年に日本に帰化したそうです。

日本は中国に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」で始まる国書を贈ったことに始まり、中華文明からの離脱を図りました。
日本の大和朝廷から、推古女帝を「日出づる処の天子」と称して出された一通の国書は、このような中華世界の独善的イデオロギーに対しての挑戦を意味する。つまり、「そちらが天子であれば、こちらも天子じゃ」という内容なのである。(p.26)
それ以来、中国に近づくと国が乱れ、中国と断交することで繁栄するという例は驚くほどたくさんあげられています。前者の例は、白村江の戦い、豊臣秀吉の朝鮮出兵、満州国や大東亜共栄圏などの失敗で、後者の例は、江戸時代、脱亜を目指した明治初期、戦後復興期などの成功です。こういった背景を踏まえた著者の主張は、2004年にはやった「政冷経熱」をもじった「経温政涼」だそうです。経済は、中国の発展期待に入れ込みすぎて中国進出ブームに乗るのではなく、もう少し冷ました関係、政治は日中友好でもなく反中でもないクールな関係だそうです。
「経温政涼」こそが、今後の日中関係に向けて提言したいキーワードである。(p.218)
中国との良好な関係がなければ、今後日本はやっていけないという幻想は捨てるべきだとしています。その根拠は、戦後の経済成長は中国と断交していた期間に達成されたことです。中国の市場に入れ込みすぎた場合の日本の将来を、「満蒙は日本の生命線」と煽りながら中国と関わっていった日本と重ねています。
「13億市場」という途方もない夢に日本経済の未来を賭けて良いのだろうか。ここで想起すべきは、戦前の歴史である。昭和初期の日本は、「満蒙は日本の生命線」という熱い信念に駆り立てられて亡国への道を突っ走っていったのではなかったか。(p.201)
台頭する中国と健全で対等な関係を維持するために、過去の大和朝廷の仏教戦略にならうというのは面白いと感じました。
「随王朝の天使様が仏法を興すのに熱心であると聞き、わが朝廷は私を使いとして遣わした」と言うのである。(p.38)
日本使節の口上の背後に隠れた、大和朝廷の対中国戦略思考の一端が看て取れるであろう。それは、普遍性のある仏教と言う世界宗教のなかに身をおくことによって、中国文明ならびに王朝の権威を相対化し、中国と対等の外交関係を確立していく、というものである。太陽のごとくこの世界を偏り無く照らしている普遍的「仏法」のもとでは、中華王朝と大和朝廷の間、中国大陸と日本列島との間には優劣も上下もない。どちらかが「中心」か「周辺」かということもない。あるのはただ、同じ仏法の信奉者としての対等な関係のみである。(p.39)
かつて大和朝廷は「仏法」という普遍原理に身をおくことで、巨人・中国帝国と対等の立場に立った。同様に、今後の日本は、アジアで最初に議会政治を実施した民主主義国家として、民主・自由・人権という現代、未来にわたるもっとも普遍的な原則を堅持することで、より健全な日中関係を構築できるのではないだろうか。(p.218)
その当時に世界宗教だった仏教を国の中心に据えることで、仏教の論理を使って日本と巨大な中国が対等な位置に立つ戦略です。日本と中国との力や大きさなどの関係を超えた論理に身をゆだねて、論理で対等にたつ戦略は今でもそのまま使えると感じます。例えば、現代の論理で言うと、仏教は民主・自由・人権と言い換えられます。人権だろうが、仏教だろうがその時代には流行している普遍的価値観をもつ物語という視点で考えると同じです。この論理にたって誰が見ても妥当な主張を使い、同じ土壌にのぼることは日本のとりうる最良の選択であるように感じました。

最後に、本書の趣旨は、本ブログの「日中友好の重要性」で述べた、中国がかつての自信を取り戻し、繁栄し、誇りを持った大国として存在するのは日本の利益になることだという考えと、相反するのもではないと感じました。中国に特別に入れ込みすぎないことと、中国が誇りある大国になるために手を貸すことは対立しないからです。「日中友好の重要性」の主張は、余裕がありおおらかな大国中国は、ひいては日本の利益になるということを言っただけで、何も無条件で中国を助けると言ったわけではなかったのです。
「日中友好」は日本を滅ぼす! 歴史が教える「脱・中国」の法則 石 平 (著)

プロローグ 中国に近づくと、必ず「国乱れる」日本史の法則
第1章 「脱・中国」から始まった日本民族の国造り
第2章 仏教に隠された大和朝廷の対中国=世界戦略
第3章 中華を超えて、独自の「日本文明」が誕生
第4章 「脱亜入欧」による明治国家の自立
第5章 満州は本当に日本の「生命線」だったのか
第6章 戦後の経済成長は中国なしで成し遂げられた
第7章 二つの「聖域」で対立せざるをえない日中の宿命
第8章 中国経済は日本の救世主となれるのか?
第9章 やがて始まる、米中「最終対決」の時代
最終章 日本および日本人へ贈る、三つの提言

「反日」暴動は歴史からの警告だった! 中国と深いつながりをもった時代は「激動の戦乱」、交渉を中断した時期には「繁栄」を享受してきた。古代史以来の「中国文明コンプレックス」がハラリと落ちる、衝撃の日中関係史。

飛鳥時代から江戸時代に至るまでの、日本の「治」「乱」の変遷をこう見てみると、やはり、日中関係の深さに関連するように思えてならないのである。天智天皇の近江朝廷、清盛の平家政権、秀吉の豊臣政権、中国と深く関係した政権はことごとく短期間で崩壊したのに対し、中国と没交渉か関係の薄い平安時代、江戸時代において、日本史上もっとも平和な“繁栄の時代”を享受できたのはなぜだろうか。近・現代史においても、この不思議な関連性がはっきり見て取れる。……昭和20年の終戦から47年の日中国交回復に至るまでの27年間、日本はふたたび中国大陸と隔離された関係にあった。そして、この期間、日本は驚異的な高度経済成長を成し遂げ、戦後の繁栄を築き上げる“黄金の時代”となった。これは一体、どういうことだろう。

石平 (セキ ヘイ)
1962年、中国四川省に生まれる。1984年、北京大学哲学部を卒業。四川大学哲学部講師を経て1988年に来日し、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。1995年より民間研究機関に勤務の後、日中問題研究家として執筆・翻訳活動を展開している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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Brussels, Belgium
調べてみたところ、冒頭の命題はまだ確定したわけではないようです。今週末にベルギーに旅行に行った際に、バスで配られていたフィガロ紙の一面に、「Le japon n'est plus la deuxième économie mondiale(日本経済はもはや世界第二位ではない)」と書かれ、国旗がアメリカ、中国、日本の順で並んでいる記事があったのです。車酔いしそうなので、記事は詳しく読まず、タイトルだけメモを取っておいたのでした。

タイトルでWEB検索してもそういったタイトルの記事は見つかりませんが、同じ内容の記事が何個かあったので紹介します(概要だけ翻訳)。
Le Japon bientôt détrôné de son rang de 2e économie mondiale par la Chine - Le Monde.fr
日本は間もなく中国によって世界経済の第二位を失う

L'économie du Japon va bientôt cesser d'être la deuxième du monde, statut qu'elle détient depuis quarante et un ans, et sera dépassée par celle de la Chine, admet un rapport gouvernemental nippon publié vendredi. "Le statut de deuxième économie mondiale pour le Japon est en train de toucher à sa fin", estime ce rapport annuel du ministère de l'économie, du commerce et de l'industrie (METI).

日本経済は間もなく41年間その座にあった世界第二位であることをやめ、中国経済に追い抜かれることを、金曜日、日本政府の報告で認めた。”日本の世界第二位経済の地位も残りわずか”、経済産業省(METI)のこの年次報告は予測した。
Le Figaro - Economie : Le Japon va perdre sa place de dauphin
日本は間もなく王太子の地位を失う
En 2010, voire 2009, le Japon ne sera «plus que» la 3ème économie mondiale, derrière les Etats-Unis et la Chine. Il y a 41 ans, l'économie japonaise s'installait derrière les Etats-Unis.
2010年、もしかすると2009年、日本はアメリカと中国に次いで、«たった»世界第三位でしかなくなる。41年前、日本経済はアメリカの後ろに定着した。

Le Japon admet que la Chine sera bientôt la 2e économie mondiale : Economie
日本はまもなく、中国に世界経済第二位であることを許す

L'économie du Japon perdra sa place de deuxième mondial au profit de la Chine, estime le ministère de l'Economie, du Commerce et de l'Industrie nippon. Un rang auquel le pays s'était hissé en 1968.
日本経済は中国のために世界第二位の地位を間もなく失う、と経済産業省が予測した。かの国が1968年に掲げた地位である。
探してみて分かりましたが、まだ日本経済の世界第二位陥落が確定したニュースではなく、要するに経済産業省が発表した報告の翻訳のようです。日本のニュースで言うと以下のニュースです。
「世界2位の地位、残りわずか」 日中逆転に初言及 通商白書(産経新聞) - goo ニュース
経済産業省は19日の閣議に平成21年版通商白書を報告した。名目GDP(国内総生産)で世界3位の中国が来年には日本を追い抜くとの国際通貨基金(IMF)の経済予測を踏まえ、「『世界2位の経済大国』としての(日本の)地位も残りわずか」と、日中逆転に初めて言及。その上で、日本の針路として「課題解決型国家」を掲げ、地球温暖化をはじめ世界が直面する問題の解決に貢献することで存在感を示すよう訴えた。
2010年頃に順位変動があることは2007年9月の時点でほぼ確実な予測として伝えられていました。そう考えるとそれほど大きなニュースではないと言えます。ただし、2007年にこの予測が飛び出した時には衝撃的だったようですが。現在は、衝撃でもなんでもないような気がするなんて、たった三年で時代も変わるものですね。
2010年にGDPが日中逆転も ——日経ビジネス独自試算:NBonline(日経ビジネス オンライン)
日本が世界第2位の経済大国の座から滑り落ち、中国に逆転を許す。10年も20年も先の話ではない。日経ビジネスの試算では、中国の成長率が名目ベース で年率10%、人民元の対ドルレート上昇率が毎年5%、日本の成長率が名目2%と仮定したところ、早ければ2010年にも中国の国内総生産(GDP)が日本の数字を上回るという衝撃的な結果が飛び出した(日本の対ドルレートは変動なし、2007年と2008年は国際通貨基金(IMF)による成長予測の数値 を採用)。
フランスでの受け取られ方とは、たぶん多くの人がまず日本経済が世界第二位だったことを知らない人が大勢いそうです。渡仏してすぐの頃に友人に日本って経済的にそんなに大きな国だったって知らなかったと言われた時は唖然としましたが、今ではまあ普通かなと思います。フランスから見たら、日本は大陸の反対側にある遠い島ぐらいにしか感じられないからです。これらの記事のなかの扱いも、まるで中国の大国化を示すために日本がダシに使われているような感じです。「le Japon ne sera «plus que» la 3ème économie mondiale. 日本は«たった»世界第三位にすぎなくなる(フィガロ紙)」は、日本が世界弟二位だったことが驚きであったかのようです。
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Toulouse, France
今、フランスでは学生にとって大一番の勝負となる試験、バカロレアの試験が開催されています。この試験が日本とだいぶ違っていて、面白いです。この違いが両国の国民性の違いを説明するのにも参考になるために、エントリとしてまとめておきます。一般的に、日本人は機能性・効率性を重視し、短期の結果を最適化します。その効用の長期にわたった影響を考察するというような、現時点においては何の効用を生まない概念的な命題に重きを置かない傾向があります。フランス人は、現時点においては何の効用を生まない議論をすることを好み、現在、直面する問題が放置されることもあるように思います。

教育が国民性にどの程度の影響を与えているのかは分かりません。また、教育と特性のどちらが原因でどちらが結果なのかもはっきり分かりません。つまり最初に国民性があり、その国の教育の特性が生まれたのか、教育の特性が国民性に影響を与えているのか、分かりません。それでも、バカロレアとフランス人の特性には否定しがたい関連性があるように思います。というのも、バカロレアが上に挙げた「現時点においては何の効用を生まない議論」を聞く問題だからです。2009年のバカロレアの問題は以下のようであるようです。
FRENCH BLOOM NET-main blog: フランス式大学入試 バカロレア この問題、解けますか?
18日の哲学を皮切りに、フランスの大学入試、バカロレア baccalauréat (略して BAC)の試験が始まった。日本のセンター試験のようなものだが、根本的にシステムが違う。バカロレアは大学入学資格を得るための統一国家試験。バカロレアを取得することによって原則としてどの大学にも入学することができる。

今年の哲学の問題は次の通り。

La langage trahit-il la pensee?(言語は思考を裏切るか?)
Est-il absurde de desirer l’impossible?(不可能を望むことは非合理か?)
以下が去年のバカロレアです。僕の専攻に近いテクノロジー系と科学系の問題を引用させていただきます。
ね式(世界の読み方): バカロレア・哲学2008
テクノロジー系/Série Technologique (toutes séries sauf TMD) coefficient 2
  • Peut-on aimer une œuvre d'art sans la comprendre?
  • Est-ce à la loi de décider de mon bonheur?
  • Répondre à des questions d'après un texte de Kant
  • 芸術作品を理解せずに愛することはできるか
  • 私の幸福を法が決定しうるか
  • カントのテキストを読んで設問にこたえよ
科学系/Série S (scientifique) coefficient 3
  • L'art transforme-t-il notre conscience du réel ?
  • Y a-t-il d'autres moyens que la démonstration pour établir une vérité ?
  • Expliquer un extrait de "Le monde comme volonté et comme représentation" de Schopenhauer.
  • アートはわれわれの現実意識を変えうるか
  • ひとつの真実を確立するためにデモンストレーション以外の方法はあるか
  • ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』からの抜粋テキストを解説せよ
日本人の多くが受験するセンター試験では、正解が一つである問題が出題されますが、バカロレアでは以上のような正解のない問題が出題されます。正解のない問題に論理を用いて他者を説得する文章を書く能力が問われることになります。

日本の様に正解が一つの問題を解く能力を鍛える場合には、記憶力やすばやく、効率よく正解にたどり着くための能力を磨く必要があります。問題を解く効率性、機能性を重視した勉強法になり、問題を解くことに特に関係しない「この世の中を理解する」、「偉人の思想に分析を加える」といった事柄は後回しにされます。反対にフランスでは正解にたどり着くことではなく、答えが正解により近いことを説得力のある論理で示すことを求められます。学生は、この世の中をどのように捉えるのか、偉人の思想をどのように捉えるのか、といった日本人が概念的過ぎて役に立たないと切り捨てるような事柄を徹底して鍛えられます。食後のコーヒータイムも、特に自分の仕事に関係ないような政治の自説を戦わせたりするところに、その違いの片鱗を見る思いです→左派と右派の意見が近いフランス人の政治議論フランス人の政策議論はアラカルト方式

これが合理化、機能化、効率化を通じて現在の地位を築いた日本と、自由・平等・民主主義の思想を打ちたて、論理を持ってヨーロッパをまとめ自国の影響力を築こうとするフランスの違いなのでしょうか。教育に絶対的な良し悪しもないでしょうが、フランスが重視するものの価値を再考するのも、良いかもしれません。
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高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)このブログでは佐久先生の書評第三弾です→[書評] ビジネスマンが泣いた「唐詩」一〇〇選[書評] これが中国人だ!―日本人が勘違いしている「中国人の思想」。古典は本来、時代や個人に即した解釈が許されるはずであるのに、論語は聖典とされるあまり、教条的に扱われすぎてきたので、あえて分かりやすい構成で書かれている本です。論語が高校生につまらないといわれる原因を調べ、それに対する対策として本書の構成がとられています。
そこで、私は生徒が何につまづくのか調べてみた。その結果、判明したのが以下の三点である。
一 弟子の言葉が偉そうで「ウザッタイ」
二 人物評や政治抗争や宮廷儀礼を述べた箇所が「ジャマクサイ」
三 口語訳だけでは意味が分からず、注を読まないと理解できないので「カッタルイ」
そこで私は、孔子の言葉だけを、あたかも自分が孔子であり、生徒が弟子であるかのごとく講読してみた。(p.3)
この構成で本書を読むと、偉い先生が自分に諭したり、気づきを与えてくれているような感覚で読めます。また、大まかにトピックに分かれているために、そのトピックに対する孔子の考え方が推測できる点も良いです。

高校教師時代の著者は、完全に放任主義でした。興味を引く話をしてくれることはありましたが、聞かない生徒を無理やり聞かせるようなことは全くありませんでした。以下の引用からヒントを得ていたのでしょうか。
学びたいという自発性のない状態では進歩発展させることはできないし、自分で答えが半分出来上がっているくらいでないと教えたって身につきゃしないもんだよ。四角なものの一隅を説明したら、残りの三隅は自分で類推する意欲がなければ、教えてもまずムダだね。つまりだ、真の教育は教わる者の自発性を高めることに力を注ぐべきなんだ。自発性さえ芽生えれば、誰もが自学自得するようになるよ。ムリやり知識を押しつけて教育したつもりになっているのは、とんだ思い違いさ。(p.43)
教育は知識を詰め込むのではなく、生徒の学びたいという自発性に重きを置いた考え方です。2500年前の孔子の言葉は長きに渡って読み継がれてきたことを考えると、多くの人が正しいと考えてきたことなのでしょう。批判されることの多い「ゆとり教育」も、知識のつめこみよりも自発性に重きを置いた点では一定の正しさがあるんだと思います。
他人が自分を認めてくれないと嘆くものは多いが、自分が周りにいる他人の才能や長所に気づかないことを嘆くのが先だろう。他人の才能に気づく能力を身につけてみなよ、そんな人物を世間がほうっておくと思うかね。(p.102)
自分の才能を認めてもらえないと嘆くのではなく、他人の才能を見抜けるように努力しなさいと言うのは、たしかにそうだと感じました。実際にこういわれると、胡散臭い感情が芽生えますが、2500年前の偉人がそう言っていたといわれると不思議と素直に受け止められるのが、古典の良いところかもしれません。
どれほどの大軍に護られている大将でも奪い取ろうと思えば奪い取れないことはないよ。しかしだ、人間の意志は、たった一人の者の意志であろうと、それを外から大勢で奪い取ろうとしたって奪い取れるもんじゃないさ。人間の意志というのは、それほど絶大な力を秘めたものなんだよ。(p.137)
人がどんな考えをするかは、その人の自由で他人が強制することはできない、と言っています。だから他人の遺志を強制的に変えさせようとするなと取るのか、だから他人に影響されず自分の意志を持てと持つのか。古典は読む人の自由な解釈が許される面白い読み物です。
高校生が感動した「論語」 (祥伝社新書)
佐久 協 (著)

孔子の生涯と『論語』
読む前に知っておきたい十項目
第1部 孔子のことば
第1章 人生の目標
第2章 家庭生活
第3章 教育と学問
第4章 道徳の力
第5章 能力と努力
第6章 社会参加
第7章 心と言葉と言動
第8章 人間の品位
第9章 国民と政治
第10章 老病死と祈り
第2部 孔子プロファイリング
第3部 弟子たちのことば

論語は二千年の長きにわたり、日本人の精神と道徳の根幹でありつづけてきた。日本人は論語というたった一冊の書物を通して、人とのつきあい方、正しい生き方を知らず識らずのうちに学んできたのだ。大人になって社会に出、人と人との間で揉まれ苦しむとき、真に役に立つのが論語である。だが、誰もが高校の授業で一度は触れた論語を、年を重ねて読み返したりはしない。三十有余年、慶応高校で論語を講じてきた著者は、「こんなにもったいないことはない」と力説する。孔子は五十代に入ってから名を成した。論語が苦労人ならではの処世術に満ちている所以である。共感できる章句が一つでもあれば、必ずや読む者の助けとなるはずだ。
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Menton, France
日本は俗に「経済一流、政治三流」と言われますが、海外のメチャクチャにひどい政治家を見ていると、日本の政治ってそんなにひどいのかなと疑問に感じていました。フランスに渡って気づいたのは、やっぱり日本の政治はフランスよりは洗練されていないと言うことです。おおざっぱに言うと日本の政治は最悪ではないが、議論が無くて世の中の雰囲気で決まっているという点を感じます。フランスでは僕の周りにいる研究者/技術者といった政治と関係なさそうな人でも政治について、よく議論しています(左派と右派の意見が近いフランス人の政治議論フランス人の議論を信頼する)。政治議論の裾野の広さを感じます。

世襲議員の制限の問題では、この議論の無さが有権者と世襲議員の双方を不幸にしているように感じます。「世襲だろうが国民のことを考える政治家が良い政治家」とか「世襲は民主主義の平等を損ねている」とか「世襲だろうが有権者に選ばれているのは事実」とか、「世襲だからダメだという考えはない(武部氏)」とか、その場の雰囲気で議論が終わってしまいます。そして有権者は、最初から有利な世襲議員がいることで、世襲でなければ政治家になれないと思って不幸になり、世襲議員は時々起こる世襲議員叩きにあって、投票と言う正当な手段で議員となったにもかかわらず、雰囲気で叩かれるという不幸が起こっています。

このサイトでは、世襲議員=無能者とされてしまっています→世襲議員の無能者リスト 日本の政治改革。しかし、世襲議員が必ずしも無能とは限らないのは当然です。むしろ平均すると世襲候補はそれ以外の候補よりも有能であると思います。幼少の頃より身近な人の政治の仕事ぶりに触れ、考え方を学ぶことのできる点では他の候補より有利です。これは、教師の子が勉強できたりするのと一緒で、その家庭で育ったことによって獲得する文化資産だといえます。文化資産には相続税がないので、代をまたいで蓄積する傾向があります。

世襲候補はその他の候補より有能であることが多いと信じるからこそ、その有利な点を除外して選挙を戦ってほしいと思います。有権者が自身の意見を代表してくれる候補を選び、より多くの有権者の意見を代表する候補が議員になるという平等な民主主義のプロセスにおいて、ある候補に特別に有利なゲタがあるならそれを規制するのは理にかなっています。俗に言われる「三バン(看板=親の名前、カバン=お金、地盤)」です。看板は変えることができないし、お金はある程度規制されているので、その他の要素を規制するべきです。つまり地盤です。

ある地域で有権者の意見をまとめ、組織票を獲得すれば、その組織票を使って子、孫、ひ孫と代々政治家になれる仕組みは間違っています。子孫の代では一般の候補者と対等の条件で選挙を戦ってないことになってしまうからです。僕は、世襲候補は親と違う選挙区から出馬すると言う規制を支持します。市民革命を主導したフランス人からすれば以下のような感想でしょう。
[書評] 日本とフランス 二つの民主主義
そもそも、民主主義の出発点である市民革命は、世襲支配を打ち倒す戦いだったはずである、親類縁者の中で議席が世襲されるのであれば、選挙などまったく意味を失ってしまう。
選挙のプロセスで一般の候補者と世襲候補が対等でないとすれば、選挙プロセスで有利だった世襲議員の正当性に疑問が付くのは当然の帰結です。世襲議員は世襲規制に反対することが多いようですが、世襲を規制し、選挙プロセスで一般議員と対等の条件で当選することで、世襲議員は自身が持つ政治資質の正当性を主張することができるようになります。一般候補と対等の条件で選挙に選ばれたことは、自身の政治資質の証明になるからです。

有権者が世襲候補と一般候補は対等な立場で選挙を戦っていると確信できる制度は、有権者にとって利益があるものです。また、対等な制度では当選した世襲議員が世襲と言う理由で叩かれることが無くなるので、世襲議員にとっても利益があります。現状の世襲候補有利な制度は有権者と世襲議員の双方を不幸にしていると言えます。小泉氏、安倍氏、福田氏、麻生氏と約10年間の内閣総理大臣が世襲の日本では、政治は世襲され変わらないという無力感が蔓延し始めているように感じます。最近、自民党での世襲規制は見送られましたが、無力感がこれ以上増大しないうちに早めに選挙プロセスを見直すべきでしょう。
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島国根性 大陸根性 半島根性 (青春新書インテリジェンスシリーズ)日本、中国、韓国の文化的違いについて書いてある本でした。本の帯には、「日本在住の韓国系中国人学者だからわかる日本・中国・韓国文化の"スレ違い"の深層とは!」と書かれています。著者はこの三国のどの文化にも詳しい学者(日・中・韓比較文化学者 金文学さん)だそうです。文化的な違いを指摘するときには、あまりに詳細に見てしまうと意味がなくなってしまうために、ある程度の近似値でレッテルを貼る必要があります。こういった議論はレッテルを貼らないと議論が先に進まないので、本書では各所にいろいろなレッテルが張られています。「「レッテル貼り」に貼られたレッテル」では、レッテル貼りは一時思考を停止させて議論を先に進めるために必要だと、書きましたが本書はこれを地で行っている感じがしました。

この三ヵ国をいろいろな角度から比較していく試みは面白かったのですが、本を読んで全般的に感じたのは中国とフランスの類似性です。どちらも大陸の中央に位置している国家であるために類似しているんだと気づきました。細かいことを気にしないおおらかさや、議論を好み、理念を重視し、面子を気にするところなどです。

大陸はまず、多種多様な民族の上に人工的に作られた国だという特徴があります。中国は漢民族と56少数民族で構成されていると言われますが、フランスも始めて国民国家が誕生した時代には、ほとんどイタリアの地方みたいだったニースや、ほとんどドイツみたいだったストラスブールをフランスに組み込んでいます。欧州もその昔は文化や民族がグラデーションのように分布していたところに、フランスという国家を人工的に作ったという点でも類似しています。この2国では人口が20倍も違ったりするので、濃淡はまったく違いますが、雰囲気みたいなものや考え方の方向性が似ている感じます。
大陸は、日本と正反対で、きわめて不自然な人口国家である。言語、宗教の異なる多様な民族を統一するために理念イデオロギーや闘争が欠かせなかった。...(略)...中国人をバラバラに散った砂だと言ったのは中国革命の父・孫文である。この砂をまとめるための触媒は、確固たるロマンをもつ理念やイデオロギーでなければならない。(p.103)
大陸の作り出す理念というのは結晶の純度が高いというか、異論を挟む余地のない、他に解釈のしようのないものが多いです。例えば、自由と平等を基とする民主主義という概念などはその一例です。個人個人の利害がいかに対立しようとも、全員がもっとも納得できる理念を求めた結果だという気がします。日本のように個別の事案の利害対立を解消していくようなアプローチでは大陸ではやっていけないのでしょう。明治維新も日本全国の三百諸侯をまとめるために普遍的なイデオロギーである天皇をトップに持ってましたが、全世界を見渡すと普遍性はかなり低いといわざるを得ません。著者は日中韓を大豆にたとえますが、フランスもまた「たらいのなかの大豆」が近いと思います。
仮に大豆で日中韓三ヶ国の人間関係のあり方をたとえれば、日本社会は、納豆のような形をしている。一粒一粒が独立してはいるが、ねばねばした糸で仲良くつながっている。中国人はたらいのなかの大豆のようにたらいという統一理念、規律からはなれると、バラバラに散らばってしまう。(p.149)
次に思想の純度・普遍性は大陸が最も高いという例で、宗教を挙げています。
世界中の哲学・思想のほとんどが大陸国家で誕生した。孔子、釈迦、キリスト、マホメットもみな大陸の人物である(p.99)
僕が常々、フランスは”戦略、戦術、謀略”において、日本がかなう相手ではないと思っています。著者は、これを”戦略、戦術、謀略においては中国人に及ぶ民族は世界中でも存在しない”と言っています。やはり、フランスと中国は大陸性においてかなり近いのではないかと思います。
これは、私の主観的な意見だが、中国では人間関係の哲学的理念が中国文化の中核に占拠しており、他の些細なことは軽視または無視してもよいほどだった。戦略、戦術、謀略においては中国人に及ぶ民族は世界中でも存在しないといっても過言ではない。(p.126)
最後に国を象徴する動物も一緒でした。そしてその理由も一緒です。
中国人は、中国の国土の形をよく雄鶏にたとえる。私が小学生に入った頃、担任の先生から祖国中国の形は美しい雄鶏に似ていて、当方の大地に立って世界に声高く革命を唱えているのだといわれたものだ。(p.94)
フランスの象徴も雄鶏です。「不潔なオリの中で糞を踏んづけながらも、声高に理想を叫ぶ」と揶揄されます。褒めるにも貶すにも使える雄鶏のイメージはフランスにぴったりかもしれません。ちなみにフランス大使館の「フランス共和国を表すシンボル」を見てみると、以下の通りに書かれていました。
ラテン語で雄鶏とガリア人を表す単語が似ている(Gallus gallicus)ため、昔からフランス文化に深く根付いていた。また雄鶏のもつ闘魂と勇猛さが、フランス人の美徳と重なるという、フランス人にとって嬉しい評もある。
島国根性 大陸根性 半島根性 (青春新書インテリジェンスシリーズ)
金 文学 (著)

序章 なぜ日中韓はこんなにもスレ違うのか
第1章 島国根性 大陸根性 半島根性
第2章 木の文化 石の文化 土の文化
第3章 和の国 闘の国 情の国
第4章 「人」「神」「自然」に見る思考様式の違い
終章 日中韓は“違う”からこそうまくいく

作家、比較文化学者。1962年、中国の瀋陽で韓国系3世として生まれる。東北師範大学日本文学科卒業。遼寧教育大学講師を経て、1991年来日。同志社大学大学院で修士課程修了。1994年から同大学文学部客員研究員、京都大学客員研究員。2001年広島大学大学院博士課程修了。現在、呉大学社会情報学部、福山大学人間文化学部非常勤講師。専門は、比較文学・比較文化および文化人類学。現在日本を中心に日中韓3カ国語による執筆、講演活動、テレビ放送界などで活躍中。著書は3カ国で40冊を超える。中国では文学賞を多数受賞。国際舞台で活躍する知日派新世代知性の旗手、国際派文化鬼才として、高い評価を得ている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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島国根性 大陸根性 半島根性 (青春新書インテリジェンスシリーズ)日本、中国、韓国の文化的違いについて書いてある本でした。本の帯には、「日本在住の韓国系中国人学者だからわかる日本・中国・韓国文化の"スレ違い"の深層とは!」と書かれています。著者はこの三国のどの文化にも詳しい学者(日・中・韓比較文化学者 金文学さん)だそうです。文化的な違いを指摘するときには、あまりに詳細に見てしまうと意味がなくなってしまうために、ある程度の近似値でレッテルを貼る必要があります。こういった議論はレッテルを貼らないと議論が先に進まないので、本書では各所にいろいろなレッテルが張られています。「「レッテル貼り」に貼られたレッテル」では、レッテル貼りは一時思考を停止させて議論を先に進めるために必要だと、書きましたが本書はこれを地で行っている感じがしました。

この三ヵ国をいろいろな角度から比較していく試みは面白かったのですが、本を読んで全般的に感じたのは中国とフランスの類似性です。どちらも大陸の中央に位置している国家であるために類似しているんだと気づきました。細かいことを気にしないおおらかさや、議論を好み、理念を重視し、面子を気にするところなどです。

大陸はまず、多種多様な民族の上に人工的に作られた国だという特徴があります。中国は漢民族と56少数民族で構成されていると言われますが、フランスも始めて国民国家が誕生した時代には、ほとんどイタリアの地方みたいだったニースや、ほとんどドイツみたいだったストラスブールをフランスに組み込んでいます。欧州もその昔は文化や民族がグラデーションのように分布していたところに、フランスという国家を人工的に作ったという点でも類似しています。この2国では人口が20倍も違ったりするので、濃淡はまったく違いますが、雰囲気みたいなものや考え方の方向性が似ている感じます。
大陸は、日本と正反対で、きわめて不自然な人口国家である。言語、宗教の異なる多様な民族を統一するために理念イデオロギーや闘争が欠かせなかった。...(略)...中国人をバラバラに散った砂だと言ったのは中国革命の父・孫文である。この砂をまとめるための触媒は、確固たるロマンをもつ理念やイデオロギーでなければならない。(p.103)
大陸の作り出す理念というのは結晶の純度が高いというか、異論を挟む余地のない、他に解釈のしようのないものが多いです。例えば、自由と平等を基とする民主主義という概念などはその一例です。個人個人の利害がいかに対立しようとも、全員がもっとも納得できる理念を求めた結果だという気がします。日本のように個別の事案の利害対立を解消していくようなアプローチでは大陸ではやっていけないのでしょう。明治維新も日本全国の三百諸侯をまとめるために普遍的なイデオロギーである天皇をトップに持ってましたが、全世界を見渡すと普遍性はかなり低いといわざるを得ません。著者は日中韓を大豆にたとえますが、フランスもまた「たらいのなかの大豆」が近いと思います。
仮に大豆で日中韓三ヶ国の人間関係のあり方をたとえれば、日本社会は、納豆のような形をしている。一粒一粒が独立してはいるが、ねばねばした糸で仲良くつながっている。中国人はたらいのなかの大豆のようにたらいという統一理念、規律からはなれると、バラバラに散らばってしまう。(p.149)
次に思想の純度・普遍性は大陸が最も高いという例で、宗教を挙げています。
世界中の哲学・思想のほとんどが大陸国家で誕生した。孔子、釈迦、キリスト、マホメットもみな大陸の人物である(p.99)
僕が常々、フランスは”戦略、戦術、謀略”において、日本がかなう相手ではないと思っています。著者は、これを”戦略、戦術、謀略においては中国人に及ぶ民族は世界中でも存在しない”と言っています。やはり、フランスと中国は大陸性においてかなり近いのではないかと思います。
これは、私の主観的な意見だが、中国では人間関係の哲学的理念が中国文化の中核に占拠しており、他の些細なことは軽視または無視してもよいほどだった。戦略、戦術、謀略においては中国人に及ぶ民族は世界中でも存在しないといっても過言ではない。(p.126)
最後に国を象徴する動物も一緒でした。そしてその理由も一緒です。
中国人は、中国の国土の形をよく雄鶏にたとえる。私が小学生に入った頃、担任の先生から祖国中国の形は美しい雄鶏に似ていて、当方の大地に立って世界に声高く革命を唱えているのだといわれたものだ。(p.94)
フランスの象徴も雄鶏です。「不潔なオリの中で糞を踏んづけながらも、声高に理想を叫ぶ」と揶揄されます。褒めるにも貶すにも使える雄鶏のイメージはフランスにぴったりかもしれません。ちなみにフランス大使館の「フランス共和国を表すシンボル」を見てみると、以下の通りに書かれていました。
ラテン語で雄鶏とガリア人を表す単語が似ている(Gallus gallicus)ため、昔からフランス文化に深く根付いていた。また雄鶏のもつ闘魂と勇猛さが、フランス人の美徳と重なるという、フランス人にとって嬉しい評もある。
島国根性 大陸根性 半島根性 (青春新書インテリジェンスシリーズ)
金 文学 (著)

序章 なぜ日中韓はこんなにもスレ違うのか
第1章 島国根性 大陸根性 半島根性
第2章 木の文化 石の文化 土の文化
第3章 和の国 闘の国 情の国
第4章 「人」「神」「自然」に見る思考様式の違い
終章 日中韓は“違う”からこそうまくいく

作家、比較文化学者。1962年、中国の瀋陽で韓国系3世として生まれる。東北師範大学日本文学科卒業。遼寧教育大学講師を経て、1991年来日。同志社大学大学院で修士課程修了。1994年から同大学文学部客員研究員、京都大学客員研究員。2001年広島大学大学院博士課程修了。現在、呉大学社会情報学部、福山大学人間文化学部非常勤講師。専門は、比較文学・比較文化および文化人類学。現在日本を中心に日中韓3カ国語による執筆、講演活動、テレビ放送界などで活躍中。著書は3カ国で40冊を超える。中国では文学賞を多数受賞。国際舞台で活躍する知日派新世代知性の旗手、国際派文化鬼才として、高い評価を得ている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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Versailles, France
2006年にハーバードビジネススクールでMBA取得した人が、経済危機を回避できなかったことでMBAを批判していました→「金融危機の真犯人を育んだMBAの罪:日経ビジネスオンライン」。エリートの位置づけとして、最近書評した「[書評] エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学」で”自身が万人に与え難い高度な知識を得ることは、市民の代表としてその知識を得ることと捉え、その知識を社会に還元する義務を負った考える”という視点を得たので、これを元にエリートの位置づけを考えていこうと思います。

まず、MBAに寄せられる批判として、以下のようにまとめられています。
金融危機の真犯人を育んだMBAの罪:日経ビジネスオンライン
ビジネススクールがビジネスの行動規範を作り出し、学生を教育しているのは、ほんの一握りのエリートだけが潤うためなのか、それとも多数の人が潤うためのものなのか?

社会から課せられた経済的な役割を、大多数の人の役に立つために行使しているのか、それとも自分たちだけのものにしようとしているのか?
これは、すべての人に施し難い高度な知識を得た人が、その知識を独占し個人の栄達のために使うのか、それとも、その教育を受けられなかった大衆にも有益になるように使うのかということが問われています。[書評]では、すべての人が得ることができない高度な知識を獲得する立場に立ったものは、市民を代表して知識を受ける代わりに、それを全体の利益にもなるように行使する義務を負うという見解が示されていました。このような視点に立つと、率先して未来を思考し、未来を構築しなければならないMBAのエリートがそれをできなかったことが全員に分かってしまったのは、致命的でした。
ビジネススクールにとっての悲劇は、バブルが悲惨なまでに拡大している間、経済システム全体の再構築をすべきという批判の声を上げなかったことだ。グローバル経済に関する彼らの専門的で独立した思考が求められていたまさにその時、彼らは声を失っていたのである。

彼らはビジネス界の知的リーダーとして活躍するのではなく、従属者のように語り、行動した。経営学者はビジネスの理性や良心を体現することもなく、目の前に広がる不穏な出来事について批判する意志もなく、哲学的に思考する力にも驚くほど欠けていることを露呈した。
このエントリに対する在学生の方々の意見を聞いてみると、MBAはそんなに大したものではなく、経済危機を回避させるほどの力は無いと書かれています。

LBS | 経営コンサルタントのLondon留学: 金融危機の真犯人を育んだMBAの罪?
MBAって、そんなタイソウなものだっけ?

[MBA受験]MBAへの幻想を捨てる 遅咲きの狂い咲き (Oxford MBA編)/ウェブリブログ
うーむ、言っていることは真実だと思うが、逆に言えばビジネススクールに過度に期待しているような気もする。
実際にMBAで学んでいる学生がいきなり経済危機を防ぐ役割を負わされそうになる時の反応としては、正直なものなのだろうと思います。どんなに高度な知識を動員しても不可能なことはあります。経済危機を未然に防ぐなどの言うのは、未だに人類が達成できていない夢だと言うことは言えるか知れません。しかし知識を動員しても不可能ということは妥当だと言えるかもしれませんが、間違いを回避する義務も無いという意見には、違和感を感じます。ビジネスに関する最も高度な知識を持つ人たちに、世界の間違いを正す気がないのは残念です。以下の引用では、MBAの知識を持つ人た達が便利な道具と例えられています。これは、まさに”彼らはビジネス界の知的リーダーとして活躍するのではなく、従属者のように語り、行動した”という批判がそのまま当てはまる気がします。
あくまでも、MBA教育は、リーダーやマネジャーを“支援”するのがその本来のミッションです。たとえば、マイクロソフトのWordは、ドキュメンテーションを“支援”してくれる有用な手段です。しかし、だからといって、仮に、作成した文書に間違いがあったとしたら、Wordが悪いのでしょうか?Wordはその間違いを防ぐ責務を負っていたかというと、少し疑問符。(金融危機の真犯人を育んだMBAの罪?
最も高度な知識を持つ人たちは、それを受けられない市民を代表して高度な知識を得たと捉えられます。そして、その点でリーダーとなるべき義務を負っていると考えられます。やはり彼らは、便利な道具とは違いその分野のリーダーとして率先して意見を表明すべきだったと思います。

最後に、冒頭で引用したエントリでは、MBAの信頼を取り戻すには、エリートはその知識を独占して個人的な栄達を目指すだけではなく、すべての人の利益になることを示すべきという認識が表明されていました。さすがに失敗から学ぶ力がある優秀な人たちだと感じました。
ビジネススクールは、世間一般からの信認を回復することから着手しなければならない。自由市場主義がごく一部の人のためだけでなく、すべての人の利益になり得るものだということを示すべきだ。
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2006年にハーバードビジネススクールでMBA取得した人が、経済危機を回避できなかったことでMBAを批判していました→「金融危機の真犯人を育んだMBAの罪:日経ビジネスオンライン」。エリートの位置づけとして、最近書評した「[書評] エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学」で”自身が万人に与え難い高度な知識を得ることは、市民の代表としてその知識を得ることと捉え、その知識を社会に還元する義務を負った考える”という視点を得たので、これを元にエリートの位置づけを考えていこうと思います。

まず、MBAに寄せられる批判として、以下のようにまとめられています。
金融危機の真犯人を育んだMBAの罪:日経ビジネスオンライン
ビジネススクールがビジネスの行動規範を作り出し、学生を教育しているのは、ほんの一握りのエリートだけが潤うためなのか、それとも多数の人が潤うためのものなのか?

社会から課せられた経済的な役割を、大多数の人の役に立つために行使しているのか、それとも自分たちだけのものにしようとしているのか?
これは、すべての人に施し難い高度な知識を得た人が、その知識を独占し個人の栄達のために使うのか、それとも、その教育を受けられなかった大衆にも有益になるように使うのかということが問われています。[書評]では、すべての人が得ることができない高度な知識を獲得する立場に立ったものは、市民を代表して知識を受ける代わりに、それを全体の利益にもなるように行使する義務を負うという見解が示されていました。このような視点に立つと、率先して未来を思考し、未来を構築しなければならないMBAのエリートがそれをできなかったことが全員に分かってしまったのは、致命的でした。
ビジネススクールにとっての悲劇は、バブルが悲惨なまでに拡大している間、経済システム全体の再構築をすべきという批判の声を上げなかったことだ。グローバル経済に関する彼らの専門的で独立した思考が求められていたまさにその時、彼らは声を失っていたのである。

彼らはビジネス界の知的リーダーとして活躍するのではなく、従属者のように語り、行動した。経営学者はビジネスの理性や良心を体現することもなく、目の前に広がる不穏な出来事について批判する意志もなく、哲学的に思考する力にも驚くほど欠けていることを露呈した。
このエントリに対する在学生の方々の意見を聞いてみると、MBAはそんなに大したものではなく、経済危機を回避させるほどの力は無いと書かれています。
LBS | 経営コンサルタントのLondon留学: 金融危機の真犯人を育んだMBAの罪?
MBAって、そんなタイソウなものだっけ?

[MBA受験]MBAへの幻想を捨てる 遅咲きの狂い咲き (Oxford MBA編)/ウェブリブログ
うーむ、言っていることは真実だと思うが、逆に言えばビジネススクールに過度に期待しているような気もする。
実際にMBAで学んでいる学生がいきなり経済危機を防ぐ役割を負わされそうになる時の反応としては、正直なものなのだろうと思います。どんなに高度な知識を動員しても不可能なことはあります。経済危機を未然に防ぐなどの言うのは、未だに人類が達成できていない夢だと言うことは言えるか知れません。しかし知識を動員しても不可能ということは妥当だと言えるかもしれませんが、間違いを回避する義務も無いという意見には、違和感を感じます。ビジネスに関する最も高度な知識を持つ人たちに、世界の間違いを正す気がないのは残念です。以下の引用では、MBAの知識を持つ人た達が便利な道具と例えられています。これは、まさに”彼らはビジネス界の知的リーダーとして活躍するのではなく、従属者のように語り、行動した”という批判がそのまま当てはまる気がします。
あくまでも、MBA教育は、リーダーやマネジャーを“支援”するのがその本来のミッションです。たとえば、マイクロソフトのWordは、ドキュメンテーションを“支援”してくれる有用な手段です。しかし、だからといって、仮に、作成した文書に間違いがあったとしたら、Wordが悪いのでしょうか?Wordはその間違いを防ぐ責務を負っていたかというと、少し疑問符。(金融危機の真犯人を育んだMBAの罪?
最も高度な知識を持つ人たちは、それを受けられない市民を代表して高度な知識を得たと捉えられます。そして、その点でリーダーとなるべき義務を負っていると考えられます。やはり彼らは、便利な道具とは違いその分野のリーダーとして率先して意見を表明すべきだったと思います。

最後に、冒頭で引用したエントリでは、MBAの信頼を取り戻すには、エリートはその知識を独占して個人的な栄達を目指すだけではなく、すべての人の利益になることを示すべきという認識が表明されていました。さすがに失敗から学ぶ力がある優秀な人たちだと感じました。
ビジネススクールは、世間一般からの信認を回復することから着手しなければならない。自由市場主義がごく一部の人のためだけでなく、すべての人の利益になり得るものだということを示すべきだ。
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今日は天安門事件が起こった日から20年目の記念日です。特に気にしていたワケではないのですが、昨日「日経ビジネス」を見ていたら最近だけで3つも特集が組まれていたので、思い出したのでした。日本ではそこそこ取り上げられていることが分かります。それらによると、やはり天安門事件は中国共産党の失敗だったという見方が大半です。天安門事件から始まる20年間で中国が発展したことは事実ですが、それによって共産党による武力鎮圧が肯定される論調は日本には見当たりません。
これらの特集によると、今時の中国の大学生は、天安門事件に無関心であるということが分かります。また、中国のメディアは天安門事件に関する報道を禁止されていることが分かりました。
「六・四」——キャンパスに流れる“平穏”:日経ビジネスオンライン
20周年を機に、日頃から密につき合っている北京大学の学生および北京在住の記者たちと「六・四」について内密に議論してみた。彼ら・彼女らとのコミュニケーションを通じて、2つの違和感を覚えた。  1つ目に、現在の学生(学部生、院生を含めて)が当時の事件に極めて無関心で、場合によっては存在すら知らないということである。
...(略)...
家庭・学校・社会という3つの教育現場を通じて語り継がれていないこと、「六・四」に関して何か特別な言動を起こすことで、将来のキャリアが冒されること、の2点が北京大生が「六・四」について知らない、あるいは無関心の原因になっている。
...(略)...
中国メディアの記者たちが「六・四」に関する一切の取材を禁止されていることである。状況を考えれば、当局による報道規制は想像に難くない。
今日会った中国人に「今日は中国に特別な日じゃない?」と質問してみました。思った通り反応は薄く、少し考えないと分からないぐらいの間がありました。報道も無いそうなので、当然なのかもしれません。しかし、続く意見は日本ではまるで聞いたことも無い意見だったのです。

曰く、1)天安門事件のデモを起こした学生は、すべての学生ではないが、米ソ冷戦下の状況でアメリカの工作員に煽動されていた学生がたくさんいた。2)人民に攻撃を加えたことは残念なことだけど、あの状況下では他に方法が無かったこと。そして、3)現在は中国共産党も少しは反省している、とのことでした。あの時にもっとひどい混乱が起こっていたら、もっと大変なことになっていたというのが、共通見解であるようです。

日本における報道とあまりの違いにあぜんとしつつも、「じゃあ、今日は別に特別な日じゃないんだね?」と聞いたら、全く普通の日と同じだと言ってました。"「六・四」が歴史の1ページに刻まれるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。"と結論されている「六・四」——キャンパスに流れる“平穏”と完全に一致します。さらに加えて、ちょうど一か月前の「五四運動(反日、反帝国主義を掲げる大衆運動)」は中国にとってものすごく特別な日だと教えてくれました。こちらも今年は90周年の記念にあたります。日本では関心の薄かった(?)五四運動と関心の高い天安門事件。中国共産党が評価する五四運動と中国では報道が禁止されている天安門事件。日本人と中国人の認識の違いはすごく大きいと感じます。

(ちなみに、話をしてくれた中国人は、中国人が中国共産党へ対する3タイプの考え方で紹介した分類で言うと、「3. 中国共産党を容認」に近いかなと感じました。)

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今日は天安門事件が起こった日から20年目の記念日です。特に気にしていたワケではないのですが、昨日「日経ビジネス」を見ていたら最近だけで3つも特集が組まれていたので、思い出したのでした。日本ではそこそこ取り上げられていることが分かります。それらによると、やはり天安門事件は中国共産党の失敗だったという見方が大半です。天安門事件から始まる20年間で中国が発展したことは事実ですが、それによって共産党による武力鎮圧が肯定される論調は日本には見当たりません。
これらの特集によると、今時の中国の大学生は、天安門事件に無関心であるということが分かります。また、中国のメディアは天安門事件に関する報道を禁止されていることが分かりました。
「六・四」——キャンパスに流れる“平穏”:日経ビジネスオンライン
20周年を機に、日頃から密につき合っている北京大学の学生および北京在住の記者たちと「六・四」について内密に議論してみた。彼ら・彼女らとのコミュニケーションを通じて、2つの違和感を覚えた。  1つ目に、現在の学生(学部生、院生を含めて)が当時の事件に極めて無関心で、場合によっては存在すら知らないということである。
...(略)...
家庭・学校・社会という3つの教育現場を通じて語り継がれていないこと、「六・四」に関して何か特別な言動を起こすことで、将来のキャリアが冒されること、の2点が北京大生が「六・四」について知らない、あるいは無関心の原因になっている。
...(略)...
中国メディアの記者たちが「六・四」に関する一切の取材を禁止されていることである。状況を考えれば、当局による報道規制は想像に難くない。
今日会った中国人に「今日は中国に特別な日じゃない?」と質問してみました。思った通り反応は薄く、少し考えないと分からないぐらいの間がありました。報道も無いそうなので、当然なのかもしれません。しかし、続く意見は日本ではまるで聞いたことも無い意見だったのです。

曰く、1)天安門事件のデモを起こした学生は、すべての学生ではないが、米ソ冷戦下の状況でアメリカの工作員に煽動されていた学生がたくさんいた。2)人民に攻撃を加えたことは残念なことだけど、あの状況下では他に方法が無かったこと。そして、3)現在は中国共産党も少しは反省している、とのことでした。あの時にもっとひどい混乱が起こっていたら、もっと大変なことになっていたというのが、共通見解であるようです。

日本における報道とあまりの違いにあぜんとしつつも、「じゃあ、今日は別に特別な日じゃないんだね?」と聞いたら、全く普通の日と同じだと言ってました。"「六・四」が歴史の1ページに刻まれるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。"と結論されている「六・四」——キャンパスに流れる“平穏”と完全に一致します。さらに加えて、ちょうど一か月前の「五四運動(反日、反帝国主義を掲げる大衆運動)」は中国にとってものすごく特別な日だと教えてくれました。こちらも今年は90周年の記念にあたります。日本では関心の薄かった(?)五四運動と関心の高い天安門事件。中国共産党が評価する五四運動と中国では報道が禁止されている天安門事件。日本人と中国人の認識の違いはすごく大きいと感じます。

(ちなみに、話をしてくれた中国人は、中国人が中国共産党へ対する3タイプの考え方で紹介した分類で言うと、「3. 中国共産党を容認」に近いかなと感じました。)

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エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学 (ちくま新書)フランスのエリートを養成する学校であるグランゼコールに関する本です。本の概要は、1)フランスの教育全般にわたる解説、2)グランゼコールの歴史と著名な学生達の紹介、3)21世紀のグランゼコールの展望となっていました。1996年の出版ですが、どのようにエリートを作るかや、エリート達の歴史というのは、10年程度で変化するものではないので、今の状況をつかむにも役立つと思いました。

1ではフランスの小学校は水曜日に休みなことや、バカロレアの試験について解説されています。バカロレアは6月に高校生が受ける大学入学資格を得るための試験です。「人は苦しむことなしに欲望しうるか?バカロレア・哲学2008)」みたいな日本とはだいぶ違う問題が出るそうです。まわりのフランス人が、政治や文化など普段の生活に関係ない命題について真剣に語り合う理由が少し分かる気がします。2ではフランスで特に名高いエコール・ポリテクニーク(École polytechnique)エコール・ノルマル・シュペリウール(École normale supérieure)について歴史と、著名な在学生についての物語について語られます。前者は官僚/技術者になることが多く、後者は学者/教育者になる傾向があるそうです。

タイトルにあるようにエリートについて議論されているのは3つ目の部分でした。フランスでは社会の仕組みのすべてを考えて作り上げていくエリートと、言われた通りに働き気ままに暮らす庶民というように、日本よりも分かれています。

日仏経済情報
CNRS(フランス国立科学研究所)の調査によると、フランスの上位200社の大企業では、社長のなんと50%はENA(国立行政大学校)と Polytechnique(国立理工科大学校)の出身者である。これに他の国立のグランゼコール(高等大学院)のエコール・デ・ミーヌ(鉱山大学校)や ポン・エ・ショセ(土木大学校)などを含めると実に3分の2の企業経営のトップがこれらの官僚の出身者で占められている。
フランスではこういった事情によって、エリートは常に厳しい視線にさらされているのを、よく耳にします。しかし、一方でエリートがいなくなったらフランスの社会がまわらなくなってしまうことは庶民も含めて、よく理解されています。エリートの位置づけは、コンドルセのこの引用に現れていると思います。
『すべての人に広めることの出来る教育は、当然すべての人に等しく与えられるべきである。だが市民のある部分にしか与えることができない高度な教育があるなら、それを一部の人に与えることを拒んではならないと考える。教育は、それを受ける人にとって有益でなければならず、それを受けないことが有益なものもあるのだ』(p.168)
まず、人類の蓄積した知識は万人に平等に与えられる機会を作ることは必要だが、万人に行き渡らせることが不可能な高度な知識もあるということ。そういった高度な知識はその知識を受け取る能力のある人物だけに与えることが、受け取らない人にとっても有益であって、市民の代表として高度な知識を受け取った人はそれを社会に還元する義務を負うことになること。とくにグランゼコールも含め公教育の学費が無料であるフランスは、エリートの養成が皆の税金でまかなわれていることから、この義務が大きくなります(グランゼコールの組織形態と学費日仏の教育における学費の私費負担)。
ノブレス・オブリージュ(貴族の義務)という言葉がある。貴族はその身分にふさわしい教養を身につけ、それにふさわしい義務を果たすという意味だが、現代の「国家貴族」たるエリートにも当然この義務は要求される。国家の予算によって養成された彼らは、社会に対して大きな義務を負う。(p.199)
日本では、難関な試験に通りその結果、高度な知識を得ることができる立場に立った人が、その知識を使って個人の栄達を考えるのはむしろ普通です。自身が万人に与え難い高度な知識を得ることができる立場に立ったことを、市民の代表としてその知識を得ることと捉え、その知識を社会に還元する義務を負った考える学生の方が少数派だと思います。当然フランスでもその部分が問題となっていて、以下のように結論づけられています。
そこで教育されたエリート達が、その知識と教養をみずからの栄達のためではなく、社会に還元する意識をどう植え付けるのか。こうした点に今後フランスの教育の可否がかかっている。(p.196)
エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学 (ちくま新書)
柏倉 康夫 (著)

第1章 フランスの小、中学生
第2章 大学入学資格試験
第3章 準備学級
第4章 歴史は二百年前にさかのぼる
第5章 体制か反体制か
第6章 三人の文学者
第7章 戦争そして戦後
第8章 ソフィーとピエール
第9章 二十一世紀の知をもとめて
第10章 現代の「ノアの方舟」

グランド・ゼコールは革命のさなかの一七九四年、強烈なナショナリズムを背景に、理性にもとづいた国家の創出と拡充をめざして作られた。それ以来、優れた知識人を数多く輩出して、今なお文化の世界だけでなく政・財・官の指導層に人材を送り続けている。フランスの国運を担った超エリートシステムの二百年の軌跡を、興味深いエピソードを交えて紹介する。
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エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学 (ちくま新書)フランスのエリートを養成する学校であるグランゼコールに関する本です。本の概要は、1)フランスの教育全般にわたる解説、2)グランゼコールの歴史と著名な学生達の紹介、3)21世紀のグランゼコールの展望となっていました。1996年の出版ですが、どのようにエリートを作るかや、エリート達の歴史というのは、10年程度で変化するものではないので、今の状況をつかむにも役立つと思いました。

1ではフランスの小学校は水曜日に休みなことや、バカロレアの試験について解説されています。バカロレアは6月に高校生が受ける大学入学資格を得るための試験です。「人は苦しむことなしに欲望しうるか?バカロレア・哲学2008)」みたいな日本とはだいぶ違う問題が出るそうです。まわりのフランス人が、政治や文化など普段の生活に関係ない命題について真剣に語り合う理由が少し分かる気がします。2ではフランスで特に名高いエコール・ポリテクニーク(École polytechnique)エコール・ノルマル・シュペリウール(École normale supérieure)について歴史と、著名な在学生についての物語について語られます。前者は官僚/技術者になることが多く、後者は学者/教育者になる傾向があるそうです。

タイトルにあるようにエリートについて議論されているのは3つ目の部分でした。フランスでは社会の仕組みのすべてを考えて作り上げていくエリートと、言われた通りに働き気ままに暮らす庶民というように、日本よりも分かれています。
日仏経済情報
CNRS(フランス国立科学研究所)の調査によると、フランスの上位200社の大企業では、社長のなんと50%はENA(国立行政大学校)と Polytechnique(国立理工科大学校)の出身者である。これに他の国立のグランゼコール(高等大学院)のエコール・デ・ミーヌ(鉱山大学校)や ポン・エ・ショセ(土木大学校)などを含めると実に3分の2の企業経営のトップがこれらの官僚の出身者で占められている。
フランスではこういった事情によって、エリートは常に厳しい視線にさらされているのを、よく耳にします。しかし、一方でエリートがいなくなったらフランスの社会がまわらなくなってしまうことは庶民も含めて、よく理解されています。エリートの位置づけは、コンドルセのこの引用に現れていると思います。
『すべての人に広めることの出来る教育は、当然すべての人に等しく与えられるべきである。だが市民のある部分にしか与えることができない高度な教育があるなら、それを一部の人に与えることを拒んではならないと考える。教育は、それを受ける人にとって有益でなければならず、それを受けないことが有益なものもあるのだ』(p.168)
まず、人類の蓄積した知識は万人に平等に与えられる機会を作ることは必要だが、万人に行き渡らせることが不可能な高度な知識もあるということ。そういった高度な知識はその知識を受け取る能力のある人物だけに与えることが、受け取らない人にとっても有益であって、市民の代表として高度な知識を受け取った人はそれを社会に還元する義務を負うことになること。とくにグランゼコールも含め公教育の学費が無料であるフランスは、エリートの養成が皆の税金でまかなわれていることから、この義務が大きくなります(グランゼコールの組織形態と学費日仏の教育における学費の私費負担)。
ノブレス・オブリージュ(貴族の義務)という言葉がある。貴族はその身分にふさわしい教養を身につけ、それにふさわしい義務を果たすという意味だが、現代の「国家貴族」たるエリートにも当然この義務は要求される。国家の予算によって養成された彼らは、社会に対して大きな義務を負う。(p.199)
日本では、難関な試験に通りその結果、高度な知識を得ることができる立場に立った人が、その知識を使って個人の栄達を考えるのはむしろ普通です。自身が万人に与え難い高度な知識を得ることができる立場に立ったことを、市民の代表としてその知識を得ることと捉え、その知識を社会に還元する義務を負った考える学生の方が少数派だと思います。当然フランスでもその部分が問題となっていて、以下のように結論づけられています。
そこで教育されたエリート達が、その知識と教養をみずからの栄達のためではなく、社会に還元する意識をどう植え付けるのか。こうした点に今後フランスの教育の可否がかかっている。(p.196)
エリートのつくり方―グランド・ゼコールの社会学 (ちくま新書)
柏倉 康夫 (著)

第1章 フランスの小、中学生
第2章 大学入学資格試験
第3章 準備学級
第4章 歴史は二百年前にさかのぼる
第5章 体制か反体制か
第6章 三人の文学者
第7章 戦争そして戦後
第8章 ソフィーとピエール
第9章 二十一世紀の知をもとめて
第10章 現代の「ノアの方舟」

グランド・ゼコールは革命のさなかの一七九四年、強烈なナショナリズムを背景に、理性にもとづいた国家の創出と拡充をめざして作られた。それ以来、優れた知識人を数多く輩出して、今なお文化の世界だけでなく政・財・官の指導層に人材を送り続けている。フランスの国運を担った超エリートシステムの二百年の軌跡を、興味深いエピソードを交えて紹介する。
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Paris, France
この5月で渡仏2周年を迎えました。渡仏の数日前に大統領になったサルコジ氏の特集やカンヌ映画祭のことをテレビでやっているのを見ると、渡仏して間もな い頃のことを思い出します。フランスに関するいろいろなことを理解していくにつれて、新しいことを知った時の新鮮味が薄れつつあります。滞在期間が長くなるにつれて、意識的にいろいろなことに興味を持っていかなければ いけないように感じます。

今月は7エントリを投稿して約42600PVでした。はてなで話題になって広く読まれたエントリ「日本をもっとダメな国だと思い危機感を煽りましょう」のおかげで過去最高を更新しました。この日だけで10000PVほどだったので、1日で一か月分の4分の1弱のPVを稼いだことになります。はてなで注目を集めると、こんなにアクセスと反響があるということを初めて知りました。この反響のおかげで、読者数とブックマーク数がこれまでの3倍ほどに跳ね上がりました。

[TopHatenar] mesetudesenfrance さんの順位

注目をあつめたエントリはこのブログの中では異色のエントリだったので、のちのちもう少し書き足したいと思います。はてなからきたユーザはそのエントリしか見ない傾向があることも分かりました。初めて来た読者が、一目で少しでもこのブログの様子がつかめるように、右側に少しプロフィールを公開することにしました。その記事がどんな背景を持つ人が発信しているのかが分かった方が、情報が伝わりやすいかもしれないとの考えからです。同じく、「このブログについて」も少し更新しました。
Madeleine Sophie
1982年、京都生まれ。2005年慶應義塾大学環境情報学部卒業。2007年慶應義塾大学政策・メディア研究科修士取得。2007年よりフランスにて研究員兼博士課程在籍。専攻はモバイル・インターネット。パリ郊外に在住。Eメールは madeleine.sophie.0525@gmail.com へどうぞ。
恒例の今月のトップエントリです。まとめエントリは除外してあります。これからもこのブログをよろしくお願いします。
  1. 日本をもっとダメな国だと思い危機感を煽りましょう
  2. 日本はもうダメだ論と日本の優秀な人材
  3. フランス人から見た日本特集『Un oeil sur la planète: Japon : le reveil du sumo ?』(2/2)
  4. 世界にいい影響を与える国:ニッポン
  5. 外国人に受ける日本の動画
  6. 日本文化エロネタに対するフランス人の反応
  7. 日本人はなぜ悲観論が好きか
  8. フランス人から見た日本特集『Un oeil sur la planète: Japon : le reveil du sumo ?』(1/2)
  9. 国民総かっこよさ(Gross National Cool)とは
  10. フランスから見えるアメリカは浅はかな国
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Paris, France
この5月で渡仏2周年を迎えました。渡仏の数日前に大統領になったサルコジ氏の特集やカンヌ映画祭のことをテレビでやっているのを見ると、渡仏して間もな い頃のことを思い出します。フランスに関するいろいろなことを理解していくにつれて、新しいことを知った時の新鮮味が薄れつつあります。滞在期間が長くなるにつれて、意識的にいろいろなことに興味を持っていかなければ いけないように感じます。

今月は7エントリを投稿して約42600PVでした。はてなで話題になって広く読まれたエントリ「日本をもっとダメな国だと思い危機感を煽りましょう」のおかげで過去最高を更新しました。この日だけで10000PVほどだったので、1日で一か月分の4分の1弱のPVを稼いだことになります。はてなで注目を集めると、こんなにアクセスと反響があるということを初めて知りました。この反響のおかげで、読者数とブックマーク数がこれまでの3倍ほどに跳ね上がりました。

[TopHatenar] mesetudesenfrance さんの順位

注目をあつめたエントリはこのブログの中では異色のエントリだったので、のちのちもう少し書き足したいと思います。はてなからきたユーザはそのエントリしか見ない傾向があることも分かりました。初めて来た読者が、一目で少しでもこのブログの様子がつかめるように、右側に少しプロフィールを公開することにしました。その記事がどんな背景を持つ人が発信しているのかが分かった方が、情報が伝わりやすいかもしれないとの考えからです。同じく、「このブログについて」も少し更新しました。
Madeleine Sophie
1982年、京都生まれ。2005年慶應義塾大学環境情報学部卒業。2007年慶應義塾大学政策・メディア研究科修士取得。2007年よりフランスにて研究員兼博士課程在籍。専攻はモバイル・インターネット。パリ郊外に在住。Eメールは madeleine.sophie.0525@gmail.com へどうぞ。
恒例の今月のトップエントリです。まとめエントリは除外してあります。これからもこのブログをよろしくお願いします。
  1. 日本をもっとダメな国だと思い危機感を煽りましょう
  2. 日本はもうダメだ論と日本の優秀な人材
  3. フランス人から見た日本特集『Un oeil sur la planète: Japon : le reveil du sumo ?』(2/2)
  4. 世界にいい影響を与える国:ニッポン
  5. 外国人に受ける日本の動画
  6. 日本文化エロネタに対するフランス人の反応
  7. 日本人はなぜ悲観論が好きか
  8. フランス人から見た日本特集『Un oeil sur la planète: Japon : le reveil du sumo ?』(1/2)
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